2022/10/03 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」
(マタイによる福音書第13章3~8節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
「種蒔きの譬え」、あるいは「種を蒔く人の譬え」と呼ばれる譬え話ですが、現代に生きる私たちが一読しますと、奇妙な種の蒔き方だなあと感じられるのではないでしょうか。

何で道端や石だらけ、茨の間に種を蒔くのだろうか。畑に蒔けば良いのに。それとも畑に蒔いた際にこぼれ落ちてしまった種なのだろうか。田畑が見事に整えられ、稲や麦、また他の作物が整然と並んでいる農地の有様を思い浮かべる私たちからすれば、イエス時代の農業は「大雑把」の一言に尽きると言えるでしょう。イエス時代の農民には、ここまでは畑、ここからは道などと区分けできるような贅沢は許されなかったのかもしれませんが、自分の家の周囲の土地はすべて「畑になる可能性がある土地」でした。畑になるか、ならないかを決めるのは蒔いた種が芽を出して育つかどうかにかかっており、昨年は道だった所でも芽が出た今年は畑という感覚だったようです。

イエスは弟子たちに譬えを解説されており、種はイエスが語る福音=神を信じ、隣人を自分のように大切にするという神と人、人と人との良き交わり方で、この世に神の国を生み出す種です。イエスの福音は選ばれた一部の人にだけ伝えられるのではなく、当時の農民の、場所を選ばない種蒔きのようにあらゆる人びとへと伝えられ、福音を聞いた人の心の中で必ず芽を出す力を秘めていることが語られています。芽を出した種が育つかどうかは福音を聞いた人の心次第であり、枯れてしまう種もあるかもしれないが、その一方で現代農業でも夢物語と言えるような大豊作=この世に神の国を出現させることも十分に可能であることも教えておられます。イエスは譬え話の中ではあえて語られておらず、おそらく聞き手の想像力に任せられたのだと考えますが、芽が出て育ち始めた作物の世話をする農民の努力を見習って、神の国がこの世に出現して拡大する過程においてキリストの弟子となった者たちが関与することを期待しておられるはずです。道端や石だらけ、茨の間で芽を出した種を貧しい農民たちが放置しておけるでしょうか。少しでも収穫を上げるために道を耕し、石を除き、茨を除去するはずです。福音を聞いた他の人を放って置くな。その人の友となって、進むべき道を誤らないように共に歩き、励まし支え合いなさい。そうすれば貴方も人生という旅路で道を誤らず、楽しく歩める。その歩みの先に神の国は現れ、大きな実を結ぶとイエスは語られています。

2022年10月3日

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