イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」
(ルカによる福音書第18章1~8節)
立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
「不正な裁判官」、イエスに死刑判決を下したローマのユダヤ総督ピラトを想起させます。福音書では良心的人物との印象を受けかねないのですが、ピラトはローマの法を遵守して無実のイエスを放免しようとはせず、治安維持のためにイエスを死刑にして自己の業績を上げることを選びましたので十分に「不正な裁判官」です。イエス時代の属州ユダヤにはローマ帝国の法によるものとユダヤ教の律法によるものの二つの法廷があり、ユダヤ教の制度では裁判官が単独で判決を下すことはできませんので、たとえ話の裁判官はローマの裁判官を、おそらくはピラトを想定していると考えます。ローマの総督は属州における最高行政官と軍司令官を兼ねますが、法務官権限も付帯して裁判官も務めます。行政・軍事・司法の大権を一手に握る皇帝の代理人でありながら、総督たちの中には任期後にさらなる栄達を目指すための資金を得ようと不法な蓄財に励む者が多く、自身に利をもたらす属州の有力者と結託、民衆を泣かせる政策や判決、弾圧を行うことは珍しくありませんでした。有力者に頼る縁や財を持たない民衆にとっては諦めずに働きかけ続けることだけが唯一の手段にして希望だったように想像され、イエスの言葉は彼らへの励ましになったはずです。
そしてイエスの言葉は単なる励ましだけに留まりません。不正な人や出来事とは関わりを持ちたくないというのが一般的感覚ですが、注目すべきはたとえ不正な者であったとしても諦めずに関わり続けるという点です。やもめが諦めずに関わり続けたことで不正な裁判官は正義を行う破目に陥っており、不正な者が自分の意思に反して正義を行うようになることは神の裁きの顕れなのかもしれません。また神への祈りはいわゆる神頼みとは異なり、願いが叶うように自分から関わり努め続けることを神に誓うものです。諦めずに絶えず神に祈るとは、私たちの世界の不正な人物や出来事から遠ざかるのではなく、むしろ私たち自身から積極的に関わり、改善されるように諦めることなく働きかけ続けることなのです。
2022年10月17日
そしてイエスの言葉は単なる励ましだけに留まりません。不正な人や出来事とは関わりを持ちたくないというのが一般的感覚ですが、注目すべきはたとえ不正な者であったとしても諦めずに関わり続けるという点です。やもめが諦めずに関わり続けたことで不正な裁判官は正義を行う破目に陥っており、不正な者が自分の意思に反して正義を行うようになることは神の裁きの顕れなのかもしれません。また神への祈りはいわゆる神頼みとは異なり、願いが叶うように自分から関わり努め続けることを神に誓うものです。諦めずに絶えず神に祈るとは、私たちの世界の不正な人物や出来事から遠ざかるのではなく、むしろ私たち自身から積極的に関わり、改善されるように諦めることなく働きかけ続けることなのです。
2022年10月17日
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