2022/11/21 (MON)

チャプレンより聖書のことば

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
(コロサイの信徒への手紙第1章13~17節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
キリスト教の暦はクリスマスの4週間前の日曜日から始まります。そして、その一週間前の日曜日(今年は11月20日)が一年の最後の日曜日となります。その日曜日のことを「王なるキリスト主日」と呼びます。その主日の聖書朗読はどれもイエス・キリストが王であることについての聖書箇所から選ばれます。イエスが王の王であり、主の主であることは毎週ニケヤ信条で唱えていますが、普段からその意味を考えることはあまりないように思います。使徒聖パウロはイエスを我々キリスト教徒の王だけではなく、全世界の王であることを教えています。コロサイの信徒への手紙ではこのことを明確に書いています。神がイエスを復活させたとき、ただ単にこの世で生きていたときのような弱い一人の人間としてではなく、全世界を治める王の王座に置き、イエスにすべての主権と権威をお与えになりました。

イエスが王であることはもちろん生まれる前から決まっています。ダビデの子孫であることは、ダビデの王座を受け継ぐことが大前提となります。イエスは生まれた時だけではなく、十字架に掛けられるときも「ユダヤの王」という表札が付けられました。「自由」や「民主主義」という言葉を頻繁に掲げている現代ではなかなか違和感のあることかもしれませんが、イエスも神もわたしたちが選ぶものではなく、わたしたちが服従すべきもの、忠誠を払うべきものであります。

キリスト教は決して民主主義的な発想を持った宗教ではなく、王権制度を前提とした宗教です。王であるイエスがへりくだり、わたしたちと同じように生まれ、育ち、働き、死んだというところに大きな意味があり、最初からイエスが一般人であったとすればそれほど驚くことではないことでしょう。わたしたちはイエスの御前でも、神の御前でも、絶対的な王の御前にあることを忘れてはなりません。その王が誰よりもへりくだっていて、誰よりも愛情深く、誰よりも憐み深いことは確かですが、すべての権威と権力と栄光を持った王であることに変わりはないのです。その王が最後の日に正しい裁きを行われることを信じているからこそ、今はどんな不正があろうと、どんな不公平な人生があろうと愛を失うことなく希望を持つものです。

2022年11月21日

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