2022/11/28 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
(マタイによる福音書第24章37~44節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
2022年の場合、11月27日の日曜日をもって教会暦は新年に切り替わります。27日の日曜日から計4回の日曜日が過ぎますと待望の25日降誕日(クリスマス)になりますが、教会ではそれまでの期間を降臨節(アドベント)と呼び、普段は日々の生活に追われて怠りがちなイエスが教えられた隣人を愛する業を実践することにより、この世に来られる救い主を迎える心の準備にあてることを推奨してきました。降臨節(アドベント)はラテン語の「アドベントゥス=到来」が語源で、元々は即位した皇帝や王の初行幸を意味しますが、古代のキリスト者たちはこの語を真の王=救い主がこの世に来られたことに用いました。

注意したいのは救い主を「お迎え」するという行為です。一般に「お迎え」と言った場合、私たちは自分が今いる場所などで誰かが来るのを「待つ」ことだとイメージしがちですが、救い主は2000年以上前にもうこの世に来られています。そして復活のイエスは世の終わりまで私たちと共にいてくださることを約束されましたので、新たに生まれて来る救い主をお迎えするのではなく、今この瞬間もこの世で働いておられるイエスを見出して、そこに馳せ参じることこそが真のお迎えです。その意味では「お迎えに行く」イメージでしょう。

復活のイエスがこの世の何処におられるのか? それは最も小さくされた者たちのところ、権力や暴力などによって理不尽に苦しめられている人や日々の生活に困窮している人など、社会的に弱く小さい存在にされている人たちと共におられ、私たちが気付いて一緒に働くために赴くことを待っておられるのです。「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」とは、私たちが何気なく過ごしている日常生活の中に復活のイエスがおられることを示しており、そのことに私たちが気付いていないことを告げられているのでしょう。そして「目を覚ましていなさい」とは、この世で弱者と共に在るイエスを見出し、見つけ次第、馳せ参じることができる準備をしながら日々の生活を送りなさいとの命令なのです。

2022年11月28日

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