2023/02/06 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
(マタイによる福音書第5章18~20節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
聖書の教えにしろ、イエス自身の教えにしろ、最も問題となることの一つは、多くの人は好きな教えや都合の良い教えだけを用いて、都合の悪い教えを無視することです。この問題はイエスの時代でも大きな問題となっており、律法を部分的に守る人達が多くいました。律法は全体を守らなければ守ったことにはなりません。これは国の法律においても同じです。犯罪者は法律全体を守っていないわけではなく、特定の法律を破っているから「犯罪者」となります。神の律法においても同じです。姦淫も人殺しもしないが、人の悪口を言いふらす人は律法を破っているのです。神の前では律法を破っている人となります。

どの律法も破る人はいますが、そのなかには、破っているにも関わらず良いことをしていると考える人はいます。例えば、安息日についての律法を破る人は、働いているから良いことをしていると考えたり、やむを得ないから罪を犯しているわけではないと考えたりすることが多いです。安息日に休むことと神を礼拝することが命令されていますが、命を助けるためであれば働いても構わないということはモーセの律法にもありますし、イエスも指摘しています。日常的に安息日に働くこと、または人を働かせることはどうしても良いとは言えません。

しかし、イエスの教えにはもう一つ見逃されてしまう大切なことがあります。律法を破ってもいいと「人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」とイエスは教えています。このような教師は多くいると思います。人を愛することと人の過ちを赦すことを勘違いして、人に「律法をすべて守らなくてもよい」と教える人はいます。律法をすべて守らないといけないからこそ赦しがそれほど重要なものになるのです。律法をすべて守らなくてもよいのであれば、罪を犯すことも人を赦すこともそれほど大ごとにはならないでしょう。

日本のキリスト教や日本聖公会でも、妥協に妥協を重ね、人に(部分的に)律法を守らなくてもよいという教えをする教師が多くいるのです。偶像礼拝をしてはならないことを教えない教師、神のみを愛することを教えない教師、人を赦すことをオプションとして考える教師、同性婚をしても良いと教える教師、十分の一献金を教えない教師、断食をするように教えない教師など、沢山の例が挙げられます。部分的に律法を守る人は、部分的に律法を守るように人に教えるようになるのです。

2023年2月6日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。