2023/03/13 (MON)

チャプレンより聖書のことば

それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
(ヨハネによる福音書第4章5〜9節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
朝一番の仕事である水汲みを正午頃にしていることから、シカルの女性が町の女性たちとの交流を避けていることが伺えます。後で明かされる複数の夫がいた過去や夫ではない男性との生活から、自分は他人に顔向けができない罪人であり無価値な存在と考えていたゆえに他者の目を恐れて交流を避けていたのでしょう。そんな彼女にイエスは水を飲ませてくださいと訴えますが、それは「あなたは私の渇きを癒すことができる」の意味であり、「あなたは他人に分かち与える力を持っている」と彼女の価値を肯定したのだと言えます。男尊女卑の古代社会にあって男性が女性の価値や尊厳を公言するのは極めて稀なことです。

それも複数の夫の存在や夫以外の男性との関係を知っても彼女を見下すことなくその価値を肯定してくれただけでなく、他者との交流を避けねばならない彼女の心の渇きを理解し、渇きからの解放の道を示してくれたイエスの出現は、神が自分と共におられることを実感できた瞬間となったと考えます。イエスとの出会いは新たな人生の始まりとなりました。

ユダヤ人とサマリア人は共にアブラハムを先祖と仰ぐイスラエル12部族の子孫ですが、両者の間には500年に及ぶ敵対の歴史があります。その発端はサマリア人が独自の神殿を築いたことで、神を礼拝するのに相応しい場所はエルサレムかサマリアかを争うものです。

神とイスラエル民族との和解を真剣に望んでいたために民族の礼拝の分裂を赦さず、自分たちの神殿こそ相応しい場だと主張し譲らなかったと言えますが、それは民族全体で神を求めて止まない心の渇きを覚えていたためでしょう。イエスは女性にまことの礼拝に必要なのは場所ではなく、相応しい心の持ち方であることを教えますが、彼女は交わることを避けていた町の人たちにイエスの言葉を伝える使者となります。本当に大切な心の渇きを癒す言葉を託されたことで彼女は他者と交わる勇気を得て共同体に復帰したのです。町の人たちは「自分で聞いて」イエスを救い主であると分かったと彼女に語りますが、それは彼らも心の渇きから解放されたことの表明であると同時に、彼女との関係回復がなされたことの証です。神を愛し、互いに愛し合うことこそ、私たちの心の渇きを癒す道であり、まことの礼拝をするために不可欠にして相応しい、共に神に感謝する心を整える方法です。

2023年3月13日

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