「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」
(ヨハネによる福音書第15章12~14節)
立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
ここ数年間、コロナのパンデミックのこともあり、「命が何よりも大切だ」というような発言を何度も耳にしました。「そうですね」と返事したこともあります。人間の命が何よりも大切である、という考え方をすれば、戦争も人殺しもなくなるのではないか、とも思います。ただし、よく考えてみると、人間の命を何よりも大切にすることはイエス・キリストが我々に教えた愛の掟に反する考え方です。コロナ禍では、「命を守るために」と言いながら、人と人との交流や交わりが次から次へと断たれ、孤独になったり、他人を警戒したり恐れたりすることもありました。命を一番大切に思ってしまえば、その命を存続させることが何よりも大切になってしまいますが、命を存続させることは、自分を愛すること、隣人を愛することとは違うことです。
イエス・キリストが我々に教えた愛の道とは、十字架に通じる道です。愛している人のためであれば、自分の身を削ってでも相手に仕えます。愛することが何よりも大切であるとパウロも教えています。人を愛するのであれば、命は短くても永遠の意味を持つようになります。しかし、どんなに長生きしても、神も人も愛することができないのであればその命は無駄になってしまいます。キリスト教では、長生きすることが人生の目的の一つにはなりません。愛の掟を守ることが生きる目的であり、そのことにより、命が削られることもあれば、命そのものを人のために捧げることもあります。
もちろん、復活を信じているからこそ、十字架の道を歩んでも動揺することもなければ、希望と喜びをなくすこともありません。10年でも80年でも、終わってしまえば同じく一瞬にしか感じません。イエスがわたしたちに命じたことは、いま与えられている命を友のために捨てることであり、自分の命を守ることではありません。キリスト教的な価値観や世界観では命よりも大切なものは沢山あります。神を礼拝すること、他の神々を礼拝しないこと、神の国を建てること、親を敬うことなど、さまざまなことがあります。命というものは何かのために存在するのであって、命を延ばすために命が神から与えられているわけではありません。
2024年1月15日
イエス・キリストが我々に教えた愛の道とは、十字架に通じる道です。愛している人のためであれば、自分の身を削ってでも相手に仕えます。愛することが何よりも大切であるとパウロも教えています。人を愛するのであれば、命は短くても永遠の意味を持つようになります。しかし、どんなに長生きしても、神も人も愛することができないのであればその命は無駄になってしまいます。キリスト教では、長生きすることが人生の目的の一つにはなりません。愛の掟を守ることが生きる目的であり、そのことにより、命が削られることもあれば、命そのものを人のために捧げることもあります。
もちろん、復活を信じているからこそ、十字架の道を歩んでも動揺することもなければ、希望と喜びをなくすこともありません。10年でも80年でも、終わってしまえば同じく一瞬にしか感じません。イエスがわたしたちに命じたことは、いま与えられている命を友のために捨てることであり、自分の命を守ることではありません。キリスト教的な価値観や世界観では命よりも大切なものは沢山あります。神を礼拝すること、他の神々を礼拝しないこと、神の国を建てること、親を敬うことなど、さまざまなことがあります。命というものは何かのために存在するのであって、命を延ばすために命が神から与えられているわけではありません。
2024年1月15日
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