2024/04/15 (MON)

チャプレンより聖書のことば

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
(ヨハネによる福音書第20章19~23節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
復活のイエスが弟子たちと再会され、キリストの弟子としての任務を命じられた場面ですが、この箇所だけを切り取って読むと弟子たちに、すなわち神から教会に罪を赦すことができる権威・権能を与えられているとの誤解を生みかねません。実際、後の時代には教会が大きな権威・権力を社会に行使する根拠の一つとして用いられ、大きな影響力を振るい続ける結果を招いています。しかしながらこの再会の瞬間には教会はまだ組織されておらず、従って後世の教会に対して権威・権力を保証したと考えるのは拡大解釈に過ぎると言えます。「あなたがたに平和があるように」の言葉に表されるように、私たちの世界に真の平和をもたらすことがイエスの本意であり、イエスをこの世に遣わされた神の御旨であったと考えます。そして「あなたがた」とはイエスの前にいた弟子たちばかりでなく、29節で「見ないのに信じる人は、幸いである」と語られているように、復活のイエスと会うことはかなわないが、遣わされた弟子たちが出会い続ける私たちも含めたすべての人を指しており、誰の罪であっても私たちが赦すことこそが、この世界に真の平和がもたらされるために重要なことだとイエスは教えておられるのです。

古代のユダヤ人はひたすら神から赦しを得ようと礼拝や律法を順守することを根本にした信仰生活を送っていましたが、神はすでに赦しておられることをイエスは伝えられ、その上で神の願いは人間が神の平和の中に生きることにあると語られました。イエスは神のメッセージを語り伝えただけでなく、人間が平和に生きるための方法、助け合い、励まし合い、分かち合うことを教え、さらに実践して見せられました。神は人間の罪をすでに赦しておられる。後は人間同士の、互いの過誤を赦せるかどうかにかかっているとイエスは言っておられるのです。赦し合い、仲直りこそが重要なのですが、最近の戦争や紛争の様子を思い浮かべればこれほど難しいこともないでしょう。平和の到来を拒むのは常に私たち人間です。人間の都合が平和を拒むのであれば、平和を生み出すのは私たちにしかできないこと、私たちの責務です。神は平和の到来のため、私たちに仲直りのために働くことを求めておられます。

2024年4月15日

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