2024/05/06 (MON)

チャプレンより聖書のことば

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は皆、迫害を受けます。一方、悪人や詐欺師は惑わし、惑わされながら、ますます悪に進んで行きます。だがあなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また、自分が幼い頃から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。
聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。
(テモテへの手紙二第3章12~17節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
ユダヤ教とキリスト教の特徴の一つは聖書があることです。もちろん、ユダヤ教の聖書にはキリスト教の新約聖書は含まれていませんが、神から預かった言葉が書かれている書物が存在することに変わりはありません。1500年以上の期間、聖書は多くの方々の手によって書かれたものです。聖書は神のみことばということが多いです。そして、聖書なしにユダヤ教やキリスト教の礼拝をすることもできません。礼拝や祈りの時に限らず、敬虔なユダヤ教徒やキリスト教徒は日々聖書を読み、聖書のみことばに導かれて生きるのです。
パウロのもとで働いたテモテは幼い時から聖書に親しんでいたことがパウロの手紙で書かれています。迫害や試練があるときにこそ、聖書のことばにすがる必要があるとパウロはテモテに教えています。さらに、パウロは聖書のすべてが「神の霊感を受けて書かれた」と書いています。多くの人は聖書のことばの好きなところや自分の考えと同じであるところだけを切り取って、そうではないところを「現代には当てはまらない」などと言って無視することがあります。旧約聖書の神は人を裁くが新約聖書の神は愛の神だから新約聖書や福音書のみを読むという人もいます。近年では、聖書の「性」についての教えを無視したり、差別的なものとして捉えたりする人が増えています。時代によって聖書の不評になるところが変わります。しかし、変わらないのはどの時代であっても、聖書のどこかにその時代の人たちの考えと合わないところがあることです。このような問題は最近始まったことではないのです。イエス・キリストは口癖のように「あなたたちは読んだことがないのか」と当時のファリサイ派やサドカイ派の先生方を戒めます。
聖書のことばは多くの人が書いているもので、時には一致しない部分もありますが、全体の教えとしてはかなりはっきりしていますし、一貫しています。イエスの教えとモーセの教えを相反するものとして解釈する人は、イエスの言葉そのものを無視しています。パウロの教えは複雑なことではありません。聖書全体の教えに聞き従わなければなりません。


2024年5月6日

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