2024/09/09 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
(ヨハネによる福音書第6章53~59節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤 一太郎
ひどい話だ、こんな話は聞いていられない、とイエスの言葉を聞いた弟子たちは語りますが、彼らに限らず初めて耳にした人は同様に感じることでしょう。古代では様々な自然災害や戦争・疫病によって引き起こされる飢饉や凶作は珍しくなく、飢餓により生き残るために人の肉を食べる状況に陥ることは誰にもあり得ることでした。また旧約聖書では神に背いた者への罰として人の肉を食べる状況になることが記されていることもあり、忌避したいと願っている人の肉を食べることを、あえてしなさいと教えるイエスへの拒否反応は無理からぬことです。しかしながらイエスの真意は人の肉を食べ、血を飲むことにあったのでしょうか。大事な点は私たちがイエスをどのような方だと受け止め、信じているかということです。イエスを神の子、受肉されてこの世に来られた神と信じることができれば、人を食べることではなく、神を食べることになります。

世界各地の農耕や食物の起源神話では神の身体から穀物が生まれており、カファルナウムの人びとも耳にしていたと思われるギリシア神話ではデメテル女神が麦に、ディオニュソス神がブドウにその身を変え、潰されてパンやワインになったとされ、神が自身を犠牲にして人間を養う話は広く知られていたと言えます。そして古代の祭儀では神からの恵みへの返礼品として穀物や果実が、パンや酒が神の恵みを人間が加工した奉物として献げられ、神と共食して力をいただくために分餐されました。神は自身を犠牲にして人間に生きる力を与え、人間は神と繋がることを求めて神を食していたと言えます。神の恵みを糧として食しながら、どうして神の思いを自分のものとせずに、神の意に背く生き方をするのか。神の意に沿った生き方を実践してこそ自分が神と繋がって生きていることが実感できるとイエスは教えておられるのです。人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、とイエスは語られましたが、イエスこそこの世に来られた神の生きた言葉であり、自身を犠牲にして人間を救おうとされた神の子であることを覚え、神と繋がった生き方を実践しましょう。

2024年9月9日

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