2024/10/07 (MON)

チャプレンより聖書のことば

自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
(ヤコブの手紙第1章26~27節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
ヤコブの手紙は信仰を実践することがテーマとなっていて、具体的な教えが多く含まれています。信仰は心のなかで隠れたところに置いても無意味であるということはイエスの教えにもあります(マタイによる福音書第5章14~16節)。よい行いが伴わない信仰は無いも同然です。信仰は確かに心のなかに生じるものではありますが、実を結ばなければ生きたものではなく、死んだものであります。実を結ぶためには言葉よりも行動に表れなければなりません。口先で「イエス・キリストを尊重している」とか「神を崇める」といったようなことを言っても、神を礼拝しない人もいれば、神が創造し愛している隣人を助けようとしない人もいます。私たちの優先順位と価値観を一番よく表しているのが私たちの時間とお金の使い方です。大切だと思うものには時間やお金をかけますが、そうではないものにはあまりかけません。みなしごややもめが困っているときに世話をしなければ、私たちの価値観はイエス・キリストとは無縁です。

同時に、ヤコブは冒頭の言葉で本当の信心についてもう一つのことを強調しています。「世の汚れに染まらないように自分を守る」ことと「父である神の御前に清く汚れのない信心」を守ることです。普段の生活では「綺麗」と「汚い」を区別することは多々あります。手が汚いので洗います。洋服が汚れるので洗います。汚れも一種の汚れです。心の汚れであり、水で洗っても落ちない汚れです。自分を清める必要があります。普段から心を清める人はそれほど多いようには感じません。また、キリスト教の教えに沿った「汚れ」についての教え、そうではない教えには大きな違いがあります。「世の汚れ」という言い方をヤコブはしますが、これはどのようなことが含まれるのでしょうか? もちろんモーセの十戒の後半に出てくるような「姦淫」「貪り」「人殺し」などです。しかし、十戒の前半に出てくる「他の神々」「偶像礼拝」「安息日を守らない」ことも含まれます。世の中の生き方は多くの神々(自分が崇拝したい神々)を拝む世の中です。それに偶像が伴うことも多々あります。創造主を拝まずに、世の中の存在するさまざまな霊を拝むことは自分の心を汚すものです。安息日を守らずにお金儲けをしたり、困っている人を呼んで一緒に食事をしたりしないのであれば、心には世の汚れが付きます。神の教えは聖書にはっきりと書かれていますが、これを聞き入れない者が多くいます。聞いても行いが伴わない者も多くいます。そのような者はこの世の汚れから清められることがないまま、この世に染まっている者たちです。

2024年10月7日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。