皆さん、おはようございます。
今日は私の夏休みのボランティア体験のお話をします。もう20~30年も前、私が20~30代の頃のお話です。私は通っている教会のワークキャンプで、ある島の障がい者施設に泊まり込んでボランティア活動をしていました。その施設は、かつては、塀で囲まれ、外の世界、私たちが暮らす社会とは隔絶されていたそうです。
施設で暮らしている人=入所者には、知的な障がいがあり、それに加え、身体上の不自由を抱えている人もいました。手が不自由だと自分でご飯を口に運ぶことができません。ですから、スプーンですくって口まで運んであげる必要があります。口元の緩い人は、食べながらこぼしてしまうので、タオルで拭いてあげなければなりません。施設はいつも人手不足ですし、お盆の頃は施設の職員さんも夏休みをとります。私たちの活動には施設に入所している方との交流や簡単なお手伝いがありました。
夕食後の自由時間にはみんなが大部屋に集まります。私たちの仲間が弾くギターに合わせて、歌詞は覚えていないけれども、「アーアーアー」とか「ウーウーウー」と気持ちよさそうに歌う女性がいました。音楽に合わせて、と言っても全然合っていないのですが、でも笑顔で独特のゆったりとしたステップで踊る女性がいました。その中に、当時の私と同じくらいの年齢の女性がいました。彼女からは身体的な障がいは感じられませんでした。彼女は何度も施設からの逃走を繰り返したそうです。でも、港で見つかっては施設に連れ戻されたそうです。すぐに港に行くと捕まることを学んだ彼女は、そこは火山の島ですから、施設の裏山の洞窟に数日間、身を潜めてから港に向かったこともあったそうです。彼女にはそこを出たい理由がありました。家族、お父さんお母さんと飼っていた白い犬に会いたかったそうです。
施設ではお盆が近づくにつれ、入所者の数が減ってゆきます。理由は、ふるさとの家族と一緒に過ごすためです。「あと3日経ったら、お母さんが迎えに来るんだ」とその日が来るのを指折り数えて待っている人もいます。
でも、全員の家族が迎えに来るわけではありません。家族がいない人、何らかの理由で家族が会いに来られない人、もう何年も会いに来てくれないという人もいました。お盆の頃に施設に残されている人には、そのような人が多いのです。私と仲間は毎年、お盆に島の中心部で行われる夏祭りにその人たちと一緒に行きました。
ある男性は花火が打ち上がるたびに両手を広げ、大地を踏みつけて雄叫びを上げます。先ほどご紹介した女性は、盆踊り会場に行き、周囲の人とは明らかに異なるゆったりとした独特のステップで彼女なりの盆踊りを気持ちよさそうに笑顔で踊ります。私も彼女の隣で彼女に合わせて踊ります。
私たちは9月に行われる運動会の会場整備も行いました。運動会のコースづくりのために草を刈ったり、コンクリートで道を整備したこともありました。コースのゴールは、施設で生活しているみんなが「パパ」と呼ぶ、その施設をつくった方のお墓です。そこにはその施設で生涯を閉じた入所者、ふるさとの家族のお墓には入れてもらえなかった方ですね。そういう方も眠っています。
私は島から帰る時に、後ろめたい気持ちになりました。港に施設の入所者が見送りに来てくれることがあります。紙製のカラーテープを持ち、船に乗る私たちと港に残る入所者とは七色の虹の紙テープでつながります。船が進むと、そのテープは切れてしまいます。「プツッ」「プツッ」。私は船に乗って東京に帰ることができる、しかし、施設で暮らす人の中には、そこを出たくても出ることができない、家族と離れて暮らさなければならない人がいたのでした。
当時、この社会には、とくに知的な障がいがある人を施設に入れ、見えないものとするような仕組みがありました。その方が障がいがある人にとっても家族にとっても幸せなはずという考えが広く受け入れられていました。確かにそのような面があることは否定しません。でも、そのように思わされていた面もあったのかもしれません。「恥」だとか「かわいそう」と言われることもあったんですね。当時の社会の、つまり私たちの眼差しが、障がい者ばかりでなく、障がい者を抱える家族にも肩身の狭い思いをさせたのかもしれません。
また、当時、知的障がい者が暮らす施設は、人里離れた山の中や島につくられることが少なくありませんでした。ハンセン病療養所もそうです。隔離するかのような政策です。当時の私たちの障がい者の捉え方がそのようなところに施設をつくらせたと言えるのかもしれません。
だから見えないのです。見えなくさせられたのです。人と人との出会いがきれいに整理され、後ろめたさを感じる状況が避けられていたと言ってもいいのかもしれません。障がい者は「自分には関係のない人」として見なかったことにして心を揺さぶられない方が、楽に生きられるからなのかもしれません。
だから私は会いに行ったのだと思います。できることは少ないのかもしれないけれど、そばにいることならできる、そういう気持ちだったのだと思います。ボランティア活動を「する」ために行ったのですが、むしろ、より多くを受け取りました。だから何年も通い続けたのだと思います。
もちろん現在では、そのような排除や隠す仕組みはなくなりました。少なくとも、ないことになっています。この社会に暮らす全ての人が、この社会の一員として共に生きることが社会をより豊かなものにする、ダイバーシティ、インクルーシブな社会に法律上も制度上も変わりました。でも、もし、まだ、空気のようなものが残っているとしたら、それは、私たちの心の奥底に差別する心が残っているということになります。
皆さんは男子中学生/高校生、首都圏在住、ある程度の学力があり、家庭の経済力は高く、努力することができる能力も環境も備わっています。恵まれた環境の下に生まれ、同質性の高い環境の中で過ごしています。私たちは相手のことを理解できたり、自分と近いと感じられる存在の中にいると安心感を得ます。しかし、同質性・その居心地の良さ、そこから自ら一歩飛び出すことで、社会の見方を新たにしたり、今までとは違う自分の一面と出会ったり、自分自身の新たな可能性を見出すということがあります。
皆さんには、自分が置かれた環境が決して当たり前のものではないということに早く気付いてほしいと思います。そして、もしも自分の環境と皆さんがこれから出会う相手の環境との間に格差を感じることがあったら、そこに後ろめたさのようなものを感じたのなら、その格差や後ろめたさを行動する推進力にしてほしい、そう思います。
ボランティアの体験はその活動自体の意義はもちろんですが、そのことに留まらず、それを行ったあなたにきっと新たな示唆を与えてくれるはずです。この夏、ボランティア活動に限らず、日常から一歩踏み出す経験を、今しかできない経験をしてください。それはあなたという人間の成長につながります。
当時、よくみんなで、みんなと歌った曲に『にじ』という童謡があります。
その歌詞の一部に、次のような言葉があります。
(『にじ』 作詞:新沢としひこ、作曲:中川ひろたか)
にわのシャベルが 一日ぬれて
雨があがって くしゃみをひとつ
---中略---
にじがにじが 空にかかって
きみのきみの 気分もはれて
きっと明日は いい天気
きっと明日は いい天気
きっと明日は いい天気
先ほどお話しした、逃走を繰り返した女性ですが、彼女はその後、施設を出て、同じ施設が運営するグループホームに障がいの軽い仲間とともに移りました。わたくしたちと比べるとほんのささやかではありますが、初めて自由というものを手にしました。ミカンなどの柑橘類の収穫期には島を出て住み込みで収穫のお手伝いにも行っているそうです。ニューサマーオレンジの季節になると、今でも時々彼女のことを思い出します。
この社会には差別とか、格差とか、解決しなければならない課題が山ほどあります。それらの1つを解決するのでさえ、とっても時間がかかることがあります。もう、遅すぎると感じることも、揺り戻しもあります。行ったり来たりです。でも、行ったり来たりを繰り返しながらも、俯瞰的に、長い目で見れば、世の中は確実に変わります。ちょっとかもしれませんけど絶対にいい方に。そう信じて今日も生きてゆきましょう。
皆さん、2学期の始業礼拝/始業式で、また皆さん全員と、一人残らずです。また、ここで、みんなと、みんなで会いましょう。誰かを、神様を悲しませるようなことは絶対にするんじゃありませんよ。絶対に。
「きっと、明日は、いつかは、いい天気」(『にじ』作曲︰中川ひろたか、作詞︰新沢としひこ)です。
(2025年7月19日)
今日は私の夏休みのボランティア体験のお話をします。もう20~30年も前、私が20~30代の頃のお話です。私は通っている教会のワークキャンプで、ある島の障がい者施設に泊まり込んでボランティア活動をしていました。その施設は、かつては、塀で囲まれ、外の世界、私たちが暮らす社会とは隔絶されていたそうです。
施設で暮らしている人=入所者には、知的な障がいがあり、それに加え、身体上の不自由を抱えている人もいました。手が不自由だと自分でご飯を口に運ぶことができません。ですから、スプーンですくって口まで運んであげる必要があります。口元の緩い人は、食べながらこぼしてしまうので、タオルで拭いてあげなければなりません。施設はいつも人手不足ですし、お盆の頃は施設の職員さんも夏休みをとります。私たちの活動には施設に入所している方との交流や簡単なお手伝いがありました。
夕食後の自由時間にはみんなが大部屋に集まります。私たちの仲間が弾くギターに合わせて、歌詞は覚えていないけれども、「アーアーアー」とか「ウーウーウー」と気持ちよさそうに歌う女性がいました。音楽に合わせて、と言っても全然合っていないのですが、でも笑顔で独特のゆったりとしたステップで踊る女性がいました。その中に、当時の私と同じくらいの年齢の女性がいました。彼女からは身体的な障がいは感じられませんでした。彼女は何度も施設からの逃走を繰り返したそうです。でも、港で見つかっては施設に連れ戻されたそうです。すぐに港に行くと捕まることを学んだ彼女は、そこは火山の島ですから、施設の裏山の洞窟に数日間、身を潜めてから港に向かったこともあったそうです。彼女にはそこを出たい理由がありました。家族、お父さんお母さんと飼っていた白い犬に会いたかったそうです。
施設ではお盆が近づくにつれ、入所者の数が減ってゆきます。理由は、ふるさとの家族と一緒に過ごすためです。「あと3日経ったら、お母さんが迎えに来るんだ」とその日が来るのを指折り数えて待っている人もいます。
でも、全員の家族が迎えに来るわけではありません。家族がいない人、何らかの理由で家族が会いに来られない人、もう何年も会いに来てくれないという人もいました。お盆の頃に施設に残されている人には、そのような人が多いのです。私と仲間は毎年、お盆に島の中心部で行われる夏祭りにその人たちと一緒に行きました。
ある男性は花火が打ち上がるたびに両手を広げ、大地を踏みつけて雄叫びを上げます。先ほどご紹介した女性は、盆踊り会場に行き、周囲の人とは明らかに異なるゆったりとした独特のステップで彼女なりの盆踊りを気持ちよさそうに笑顔で踊ります。私も彼女の隣で彼女に合わせて踊ります。
私たちは9月に行われる運動会の会場整備も行いました。運動会のコースづくりのために草を刈ったり、コンクリートで道を整備したこともありました。コースのゴールは、施設で生活しているみんなが「パパ」と呼ぶ、その施設をつくった方のお墓です。そこにはその施設で生涯を閉じた入所者、ふるさとの家族のお墓には入れてもらえなかった方ですね。そういう方も眠っています。
私は島から帰る時に、後ろめたい気持ちになりました。港に施設の入所者が見送りに来てくれることがあります。紙製のカラーテープを持ち、船に乗る私たちと港に残る入所者とは七色の虹の紙テープでつながります。船が進むと、そのテープは切れてしまいます。「プツッ」「プツッ」。私は船に乗って東京に帰ることができる、しかし、施設で暮らす人の中には、そこを出たくても出ることができない、家族と離れて暮らさなければならない人がいたのでした。
当時、この社会には、とくに知的な障がいがある人を施設に入れ、見えないものとするような仕組みがありました。その方が障がいがある人にとっても家族にとっても幸せなはずという考えが広く受け入れられていました。確かにそのような面があることは否定しません。でも、そのように思わされていた面もあったのかもしれません。「恥」だとか「かわいそう」と言われることもあったんですね。当時の社会の、つまり私たちの眼差しが、障がい者ばかりでなく、障がい者を抱える家族にも肩身の狭い思いをさせたのかもしれません。
また、当時、知的障がい者が暮らす施設は、人里離れた山の中や島につくられることが少なくありませんでした。ハンセン病療養所もそうです。隔離するかのような政策です。当時の私たちの障がい者の捉え方がそのようなところに施設をつくらせたと言えるのかもしれません。
だから見えないのです。見えなくさせられたのです。人と人との出会いがきれいに整理され、後ろめたさを感じる状況が避けられていたと言ってもいいのかもしれません。障がい者は「自分には関係のない人」として見なかったことにして心を揺さぶられない方が、楽に生きられるからなのかもしれません。
だから私は会いに行ったのだと思います。できることは少ないのかもしれないけれど、そばにいることならできる、そういう気持ちだったのだと思います。ボランティア活動を「する」ために行ったのですが、むしろ、より多くを受け取りました。だから何年も通い続けたのだと思います。
もちろん現在では、そのような排除や隠す仕組みはなくなりました。少なくとも、ないことになっています。この社会に暮らす全ての人が、この社会の一員として共に生きることが社会をより豊かなものにする、ダイバーシティ、インクルーシブな社会に法律上も制度上も変わりました。でも、もし、まだ、空気のようなものが残っているとしたら、それは、私たちの心の奥底に差別する心が残っているということになります。
皆さんは男子中学生/高校生、首都圏在住、ある程度の学力があり、家庭の経済力は高く、努力することができる能力も環境も備わっています。恵まれた環境の下に生まれ、同質性の高い環境の中で過ごしています。私たちは相手のことを理解できたり、自分と近いと感じられる存在の中にいると安心感を得ます。しかし、同質性・その居心地の良さ、そこから自ら一歩飛び出すことで、社会の見方を新たにしたり、今までとは違う自分の一面と出会ったり、自分自身の新たな可能性を見出すということがあります。
皆さんには、自分が置かれた環境が決して当たり前のものではないということに早く気付いてほしいと思います。そして、もしも自分の環境と皆さんがこれから出会う相手の環境との間に格差を感じることがあったら、そこに後ろめたさのようなものを感じたのなら、その格差や後ろめたさを行動する推進力にしてほしい、そう思います。
ボランティアの体験はその活動自体の意義はもちろんですが、そのことに留まらず、それを行ったあなたにきっと新たな示唆を与えてくれるはずです。この夏、ボランティア活動に限らず、日常から一歩踏み出す経験を、今しかできない経験をしてください。それはあなたという人間の成長につながります。
当時、よくみんなで、みんなと歌った曲に『にじ』という童謡があります。
その歌詞の一部に、次のような言葉があります。
(『にじ』 作詞:新沢としひこ、作曲:中川ひろたか)
にわのシャベルが 一日ぬれて
雨があがって くしゃみをひとつ
---中略---
にじがにじが 空にかかって
きみのきみの 気分もはれて
きっと明日は いい天気
きっと明日は いい天気
きっと明日は いい天気
先ほどお話しした、逃走を繰り返した女性ですが、彼女はその後、施設を出て、同じ施設が運営するグループホームに障がいの軽い仲間とともに移りました。わたくしたちと比べるとほんのささやかではありますが、初めて自由というものを手にしました。ミカンなどの柑橘類の収穫期には島を出て住み込みで収穫のお手伝いにも行っているそうです。ニューサマーオレンジの季節になると、今でも時々彼女のことを思い出します。
この社会には差別とか、格差とか、解決しなければならない課題が山ほどあります。それらの1つを解決するのでさえ、とっても時間がかかることがあります。もう、遅すぎると感じることも、揺り戻しもあります。行ったり来たりです。でも、行ったり来たりを繰り返しながらも、俯瞰的に、長い目で見れば、世の中は確実に変わります。ちょっとかもしれませんけど絶対にいい方に。そう信じて今日も生きてゆきましょう。
皆さん、2学期の始業礼拝/始業式で、また皆さん全員と、一人残らずです。また、ここで、みんなと、みんなで会いましょう。誰かを、神様を悲しませるようなことは絶対にするんじゃありませんよ。絶対に。
「きっと、明日は、いつかは、いい天気」(『にじ』作曲︰中川ひろたか、作詞︰新沢としひこ)です。
(2025年7月19日)
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