2025/10/06 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスは、絶えず祈るべきであり、落胆してはならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。その町に一人のやもめがいて、この裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、私を守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかったが、後になって考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わないが、あのやもめは、面倒でかなわないから、裁判をしてやろう。でないと、ひっきりなしにやって来て、うるさくてしかたがない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
  (ルカによる福音書第18章1~8節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤 一太郎
古代ローマ帝国において女性は結婚前であれ結婚後であれ、いかなる権利を行使することもできず、父親か夫、または父系の最近親者に従属させられる存在でした。法的にも全くの無能力者とされ、後見人の立ち合いなくしては裁判で証言することも許されず、遺産相続からも外されていたようです。譬え話に登場するやもめは彼女の後ろ盾になる父親や夫がおらず、親族も援けてくれない状況に追い込まれ、自分に出来る唯一の方法である、諦めることなく訴え続けることで目的を達したことが伺えます。他方、彼女の訴えにうんざりさせられる裁判官ですが、おそらくは地方の総督や民会の下において民事裁判を担当していた人物と考えられます。「神を畏れず人を人とも思わない」とは随分な言われようですが、当時の民事法廷に関わる裁判官や弁護士は、若手政治家たちの多くがキャリアスタートのために選ぶ職の一つでした。法廷で弁舌を駆使して依頼者の利益を守り、民衆が喜ぶ判決を出すことで好評を得ることで出世の階段を昇ろうとする者が多くいたようです。譬え話の裁判官が当初はやもめの訴えを受けようとしなかったのも、自分にとって利益にならないからと放置していたのだと聴衆は思い至ったことでしょう。そんな裁判官が、煩くてたまらないからという理由でやもめの訴えを聞き入れ、彼女のための判決を下す心情も容易に納得できたはずです。旧約聖書にも記されていますが、不正な裁判官は珍しくないのが古代世界であり、公正な裁判官は稀少であるがゆえに伝説となりました。多くの社会的弱者が不正な者たちによって理不尽な思いをした経験があるからこそ、イエスは諦めずに行動することで不正な者をも動かすことが可能になることを教えられたのでしょう。神の意志を理解しない者ですら動かせる執念があるなら、神が援けてくださらないはずはない。神は諦めない者に応えてくださるのです。

落胆せずに絶えず祈ると表現されますが、祈りとは神への決意表明であり、その後には自分自身の行動が続きます。私たちは神に祈りさえすれば願いは叶うと期待しがちですが、お祈りして後はお任せでは神も困られるでしょう。現状を改善しようと自ら動く姿を見て、神も誰かの心に働きかけて助力者として遣わされるのです。不正な裁判官だからと諦める理由にするのではなく、煩がれるほどに働きかける執念こそが人の心を動かし、神をも動かすのです。夢や目標を見据え、自分に出来ることをやり続ける執念が求められています。


2025年10月6日

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